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大堰川の開削とその技法 ・大堰川開削により丹波地方の農作物は旧に倍し運ばれた ・写真はクリックすると拡大されます。 |
京都府船井郡の丹波山地に源を持ち現八木町や亀岡市保津を経て嵐山に至る流れが保津川(写真左)である、大堰川は、この保津川の下流域のことで嵐山の麓から渡月橋付近をいう。 |
史料「前橋旧蔵聞書・六」その他諸家の文書などの史料によると、保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着き、丹波地方の農作物は旧に倍し運ばれはじめ、嵯峨は市中商人の往来が多くなり発展がみられたと記されている。材木は筏で運送され、険しい山道(写真左)を人馬で物資を搬送したいた頃より、その利便は格段の差を生じた事が伺える。 |
| また、これまで運送を担当していた丹波の馬借らが、角倉の水運に経済的基盤を奪われたことは推測できる。角倉家は、莫大な資金を投じて開削したとはいえ、開削後の水運による収益を独占することになる。また、通船の技術導入に当たっては、備前和気郡伊部村の法蔵寺の壇徒で行舟術にすぐれた舟夫18人を嵯峨に了以が招いて、新しい水運への対応をしたのである。 |
舟夫の止宿先は嵯峨の弘源寺で、後にこれらの船夫を嵯峨に定住させ、大雄寺の荒れ地を開拓し、ここに舟夫の居住地を作った。現在の京都市右京区嵯峨角倉町あたりである。 INDEXページへ
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