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角倉了以と嵯峨

角倉一族と嵯峨

角倉了以像

京の豪商・角倉了以(天文23年=1554年〜慶長19年=1614年)は、海外貿易家として活躍する反面、河川開削・土木事業家としても活躍した。

了以53才の時・慶長11年(1606)年から半年余りかけて大堰川(保津川下流)の開削を行った。この開削によって丹波から米および材木などの物資搬送 は、険しい山道を通ることなく都へ運ばれることになる。このことが嵯峨を急速に栄えさせ、了以も大堰川の河岸に邸宅を移しここに住むことになる。
 その屋敷は臨川寺の竹やぶを開いたところと言われ、大堰川左岸の渡月橋東、現在の「花の家」が了以旧邸跡である。

角倉家の家祖「徳春」は14世紀に近江から京都に来ている、足利氏に医術を持って仕えがのちに、嵯峨に隠棲したという。またその末裔了以も嵯峨に隠棲した。

了以の子・与一も晩年、二条の屋敷を子に委ね嵯峨に住むようになり、文筆・古書の刊行を行っている。角倉一族は嵯峨野の明媚に魅せられ、ここをこよなく愛したとともにこの地の自然環境を、調和のある生活圏に変えてきた一族の人々であった。

【角倉一族】
室町時代の近江国(滋賀県)犬上郡吉田村の土豪・吉田氏が家祖である。吉田徳春の時代に医術を持って足利将軍家に仕え始めるが、その理由は定かでない。

元来近江には、室町将軍の直臣団が多かったことに起因すると考えてもよい。吉田氏は、後に土倉(どそう=室町時代に 発達した金融業)を営むことになる。徳春の子、宗順のときにその業・土倉にちなんで角倉の名を用い始める。宗順の子・宗忠時代に、「洛中滞在座頭」の職を 拝受して洛中において土倉を中心とした経済活動に大きく進出している。

宗忠の長男・与左衛門光治も土倉業を継いだが、次男・宗桂(意庵)は本来の家業である医業に従事した。吉田家は土倉と医業とを二分したのである。長男光司は若くして他界、吉田本家は光司の子・栄可が継ぐことになる。
 医術部門を継いだ宗桂は、名医と言われ天竜寺の策源和尚とともに中国大陸(当時は明)に渡っている。この名医・宗桂の子が角倉了以であり、その子・素庵(与一)は了以の偉業を継承した。