嵯峨野の女人物語

勾当内侍
(勾当内侍に関わる史跡・新田義貞の墓)

石碑の写真

二尊院総門を北へすすみ、T字路を左へ出て緩やかなカーブを北へ出ると、曲がり角に「贈正一位新田義貞公首塚碑」と刻んだ大きな石碑がある。

後に新田義貞の妻となった勾当内侍は、後醍醐帝に仕えた女官であった。和歌の名手としても伝えられている。
 秋の夜、勾当内侍は簾を半ば巻きあげて琴を弾く。近衛師団長であった新田義貞がその音に魅了される。そして、のぞき見た勾当内侍の姿にも心を奪われる。
 そこで新田義貞は意を決し、人伝いに勾当内侍へ歌を贈る。しかし、勾当内侍は帝をはばかり歌を手に取ろうともしない。義貞は思い悩む。後醍醐帝はこの噂を耳にし、義貞と勾当内侍の仲をとりもつ。

3年も経たず世はまた動乱となる。足利尊氏と新田義貞。ライバル同士である。2人の間の戦いは、足利軍と後醍醐軍との争いとなり、京都は足利軍に制圧され、 義貞は北国に逃がれる。

勾省内侍は都に近い琵琶湖畔の漁師小屋に身をひそめて、迎えを待った。3年の月日が経ち、ひたすら待ちに待った便が来る。「今は道のほども、しばらく静かになりぬれば」。
 にわかに夜の明けた心境の内侍が、越路の旅を急いでその土地に着くと、義貞は転戦して、そこにはいない。

新田義貞の墓

一日の差で彼女は生きた義貞と逢うことが出来なかったのである。京へ帰った彼女は、仁和寺のほとりに隠れる。
 忍んで、都へでると、すでに越前藤島で戦死し、三条河原でさらし首になっている夫の首を見る。勾当内侍はその首をもち帰り、髪をおろして尼となる。嵯峨野の奥、往生院あたりの柴の庵に行いすまし、義貞の菩提を弔ったという。新田義貞の首塚と勾当内侍の供養塔は滝口寺の入り口を入ったところにある。