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江戸時代の俳人・向井去来の草庵跡である。かれは芭蕉門下(蕉門)十哲の一人であった。芭蕉は、元禄4年(1691)ここを訪ね嵯峨日記を書いている、ここに来ると今も茅葺き屋根の庵があり、土間の荒壁に蓑と笠がかけられ、「主の在・不在」をしめす名残りが留められているのも印象的である。 |
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| 去来の墓はこの庵の北裏手にある、小さい去来の墓をみると、慎ましく質素に暮らしていた姿が偲ばれる。しかし去来を偲びここに集う人々の多いことが一見して良くわかる、それは俳諧を好む人たちが絶えず墓参に訪れていることである、また これらの人たちの記念句碑が林立している、 近くに西行井戸もみられる。 |
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| 二尊院はその名の如く来迎(阿弥陀)如来と発遺(釈迦)如来の二尊を安置することから名づけられた寺院である。寺院の後背地が小倉山になり正式には小倉山二尊教院華台寺と呼ばれ承和年間(834〜847)に嵯峨帝の勅願寺院として円仁(慈覚大師)が開山した。その後鎌倉時代に入り法然の弟子たん空により再興された。 |
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| 寺内一帯は楓樹が多く百人一首に詠まれている藤原忠平の「小倉山峯のもみじ葉心あらば今ひと度の御幸またなん」はこの寺の裏山になる。またこの寺には中・近世・現代を通じた著名人の墓も多く、大堰川開発の豪商角倉了以、幕末・明治の元勲三条実美・戦前の名優坂東妻三郎などの墓がある。 |
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山内は小倉山の麓から中腹に広がり楓樹に覆われた明媚な所である。ここは藤原定家が山荘を営んだあとともいわれ文録5年(1596)本こく寺16世日上人が隠棲して寺になったといわれる。定家は「捨遺愚草」の中で「忍ばれんものとはなしに小倉山軒場の松に馴れて久しき」と詠んでいる。
本堂の後ろに元和6年(1620)につくられた檜皮葺の多宝塔がある。当時の「京の町衆」により寄進されたもので3間4方の宝形造りは当時としては完成度の秀れたもののひとつであった。 |
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