鴨川納涼床

京都の季節の風物詩です。

鴨川納涼床の写真1 京都の5月~9月の風物詩として知られる鴨川納涼床は、鴨川からの爽やかな風を感じながら食事を楽しむことができるスペースとして、観光の方はもとより、市民にも人気の季節限定アミューズメントです。まだ日が落ちる前に食事をスタートすると、徐々に日が落ちて行灯が川辺に映えてくる様子はカップルにとってもロマンチックな演出となることでしょう。鴨川納涼床のお店は、京料理や和食だけでなく、すき焼きや焼肉などの肉食系、近年ではフレンチやイタリアン、創作料理、カフェなど様々なお店がありますので、お店選びも好みや用途に合わせて選択できそうです。また情緒ある京町屋を改装した店舗が多いのも魅力のひとつです。

期間は5月1日から9月30日です。

鴨川納涼床の写真12

近年、鴨川納涼床の期間が延長しています。
5月1日~9月30日まで楽しめるようになりました。(以前は多くの店が、6月1日~大文字五山送り火がある8月16日まででした)また、5月と9月に限っては、昼間のランチでも床席を利用できるようになりました。

鴨川納涼床
夜床 5月1日~9月30日
ランチ昼床 5月と9月のみ

※夜床は23:00には消灯のため終了。

(川床の営業期間は店舗により異なります。)

二条大橋~五条大橋まで4つのエリアです。

食事メニューのイメージ写真

鴨川沿いの二条から五条まで80軒以上のお店が軒を連ねていますが、大きくは4つのエリアに分類できます。

上木屋町
エリア
木屋町通の二条通から三条通まで
最寄駅/地下鉄京都市役所前など
先斗町
エリア
先斗町通の三条通から四条通まで
最寄駅/京阪三条、阪急四条など
西石垣
エリア
西石垣通の四条通から団栗橋まで
最寄駅/阪急四条など
下木屋町
エリア
木屋町通の団栗橋から五条通まで
最寄駅/阪急四条、京阪五条など

起こりは秀吉時代

鴨川納涼床の写真3 天正15年(1587年)、 豊臣秀吉は、京都に聚楽第を築くとともに京都の都市改造に着手しました。天正17年(1589年)には 巨大な『大仏殿』(1798年焼失)と、その参道として『五条大橋』が建造されました。これは後の江戸時代まで鴨川の東のランドマーク的な役割を果たし賑わいました。翌年の天正18年(1590)正月には『三条大橋』が建造され、東海道の街道整備ともあいまって、こちらも後の江戸時代まで東から京(洛中)への玄関口として賑わいました。当時の鴨川は川幅も現在よりかなり広く中洲もありました(現在の先斗町通や宮川町通の位置も当時は鴨川の河原でした)。この豊臣時代(1580~1590)に、京都の裕福な商人の中には、夏場に遠くからの客をもてなすために、蒸し暑い市中を避けて、四条や五条河原の浅瀬に床几を置いてもてなす場合があったと伝えられています。これが鴨川の納涼床の始まりだと考えられています。

歌舞伎との深い縁。

鴨川納涼床の写真4 江戸初期に描かれた「四条河原図屏風」という屏風絵があります。京(洛中)への入口である三条大橋から祇園社(現在の八坂神社)の参道である四条通へ向かうための鴨川の河原では、往来の人びとを相手に、諸芸能、珍獣の見世物といった「小屋=仮設の舞台」ができるようになりました。ことに爆発的な人気を呼んでいた「カブキ踊」の「小屋」もみられ、祇園社への参詣経路沿いにあったこともあり、たいへんな賑わいをみせていました。この「カブキ踊」をはじめたのが出雲の阿国です。史料では、慶長8(1603)年の春、阿国が北野神社の境内で念仏踊をしたあと、男装して茶屋のオカカにたわむれるといった所作をしながら踊ったという記述が残っています。それが一風かわった踊りであったところから一部に「カブキの踊り」と呼ばれました(「カブキ」とは「傾く=変わった格好、ふるまいをする」の名詞形)。その後、あちこらでこの「カブキ踊り」を模倣するものが現われ、慶長13年(1608年)には、阿国の影響を受けた女歌舞伎が初めて四条河原で興行しています。これは六条三筋町(のちの島原)の遊女たちによる歌舞伎でした。その後、寛永6年(1629年)に徳川幕府から「女歌舞伎」に対し風俗を乱すとして禁令が出されると、成人前の少年が演じる「若衆歌舞伎」が登場して人気となり、女形には美少年が選ばれました。しかし「若衆歌舞伎」も風俗を乱すとして承応元年(1652年)に禁令が出されると、成人男性が演じる「野郎歌舞伎」の時代となりました。「若衆歌舞伎」時代の女形は容姿が重視されていましたが、「野郎歌舞伎」では演技術によって女性らしさを表現する方向へと発展するなど、それぞれの役柄にあった演技が修練されていくようになりました。

周辺の町の形成

鴨川納涼床の写真5 「女歌舞伎」が人気を集めていたのと同時代の慶長16年(1611年)11月 、角倉了以が人工の運河である高瀬川の開削工事を始め、慶長19年(1614年)には完成します。この高瀬川の開通によって京と伏見が水運で結ばれるようになり、高瀬川沿いの木屋町は問屋や舟宿が立ち並び、木屋町通や鴨河原の界隈は、いっそう賑やかなエリアになってゆきました。
それから半世紀後の、寛文10年(1670年)には、洪水防止のため鴨川の護岸工事が行なわれ、堤防(東石垣、西石垣)が築かれたことで、鴨河原は広場・フリースペースとしての機能が低下しました。しかし堤防によって先斗町や宮川町の通りが出来たことで茶屋町が形成されるきっかけとなりました。両岸の茶屋からは、張出式の床も出されるようになりました。

祇園祭との深い縁

祇園会 鴨川の納涼床と祇園会(現在の祇園祭)には、江戸時代を通して密接な縁があったようです。江戸時代の文献をひもとくと、江戸時代前期の延宝5年(1677年)に出版された京都を中心とする年中行事の解説書『日次紀事』には、祇園会のあとに「四条河原の水陸、寸地を漏らさず床を並べ、席を設く」と記載されています。また、幕末の元治元年(1864年)に出版された『花洛名勝図会』にも同様に「およそ六月七日の夜より十八日の夜に至って、四条河原水陸寸地をもらさず床をならべ、席を設け、東西の茶店、堤灯を張り、あんどんをかかげてあたかも白昼の如し、これを川原の涼みといふ。」(※日付はすべて旧暦)と記載されています。このように江戸時代の祇園会では、神輿洗の時期が到来すると鴨川の河原は多くの人やそれを相手にする商人で賑わい、河原から浅瀬までぎっしり納涼の床が出されていた様子が伺えます。